アマゾンプライム配信開始を機に始めた劇場版仮面ライダーアマゾンズ感想記事も、いよいよ今回でラストとなります。
メインストリームである地上波TV放送のライダーとは違う、ネット配信版仮面ライダーとして息吹を吹き込まれたアマゾンズ。
最後ノ審判は、その終章を飾るに相応しいダイナミックでエッジが全開に効いた怪作であり、醜さと美しさが隣り合わせである人の生死というシーズン1・2の精神をブレさせることなく引き継いでいた、というのが全体の印象です。
戦闘におけるゴア描写も薄まるどころか過激さを増し、宗教系の児童養護施設のように見せかけてまさかの「アマゾン牧場」、人間がついに手を付けてしまった「人間に食われるための草食アマゾン畜産計画」…とやはりインパクトの強い設定や場面が展開されていましたね。
やや物語の運び方には強引な部分(アマゾン畜産計画の実効性や仁さんの視力回復や御堂に捕らえられた経緯が全く不明)があったものの、シリーズ登場人物ほぼ全員のスタンスを尊重した見せ場だったり、その後が描かれていたので、終わりの物語として満足できる出来だったと思います。
以下、あらすじを交えて各論に入っていきます。
シーズン2から2年後、苛烈さを増す人間側の駆除によって、現存するアマゾンは水澤悠と鷹山仁の二人のみ、という状況から物語は始まります。
4C黒崎隊から執拗な追撃を受けた悠は、自分を助けてくれる美月と共にとある村の「切子聖園」なる児童養護施設に身を寄せることになります。
しかし、そこは児童養護施設などではなく、4C橘局長と通じた園長「御堂英之助」によって運営されていた「アマゾン牧場」であり、子供たちは政財界の有力者に食べられることを運命づけられた「草食のアマゾン」だったのです……。
シーズン1では「勝手にアマゾンを生んだのに、勝手な理由で殺そう」とし、
シーズン2では溶原性細胞事件を象徴に「始めたことを、終わらせることは出来ない」という面が強調されていましたが、今作の「人間」は食料自給率向上のための秘策、誇るべき日本の新たな資源と称して「家畜化」を目論む……万物を科学力によって制御できるはずだ、と自らの英知を疑わない傲慢さを感じさせましたね。
直接的言及は無く推測の域に留まるのですが、橘局長が計画を推進した背景は従来からの利益を重視するビジネスマン思考の延長線にあると同時に、千翼に重傷を負わされたことがアマゾンへの憎しみを高め、人間より下層の存在として「支配」したい欲があったのではないか?と考えてしまいます。
計画を主導していたアマゾンネオアルファの変身者・御堂も、激戦を潜り抜けてきたレギュラーキャラたちに見劣りしない悪役を務め切っていましたね。
普段は柔和な紳士で、服装が乱れると襟を正したり、変身の際はちゃんとスーツを脱ぐ、など演じられた姜暢雄さん(他特撮作品では忍風戦隊ハリケンジャーのクワガライジャー等を演じられています)のスマートなお顔立ちが活かされていたと思いますし、計画の失敗を悟った際の激昂やネオアルファのガトリングとチェーンソーを用いた残虐なファイトスタイルとのギャップも面白い。
またこちらも子細の言及はされませんでしたが恐らく彼は科学者で、「ココ(頭)を使うのが俺達人間だろ?」の発言から窺えるように、自分と人間の科学力に対する絶対の自信を持ち、アマゾンによる畜産を本気で人類の発展に寄与するもの、化学発展の歴史に名を刻むことと信じている節が見られます。
また、人の側には一切の害を出してないことを強みのように語っており、生みだした責任を取るためアマゾンを殺すためのアマゾンとなった鷹山仁と対を為すもう一人のアルファ(ネオアルファ)を名乗るにはうってつけのキャラクターだったように思えます。
しかし、その最期は呆気なく、その行動理念から「鷹山仁は人間を殺せない」と油断したのが災いし、惨殺されます。
自分と同じく「人のために戦っていた」だろうとの意識が強かったのでしょうし、「鷹山さん!」の叫びには確信した期待を漂わせていました。
ただ、これまた説明のなかった話なのですが、御堂は仁さんと同じく「人間からアマゾン」になったという解釈で良いんでしょうかね?
テーマ的にもまとまりのよい同時進行がされていて、
・死の恐怖から人間を食べてしまった施設の少女ムクことリスアマゾン(名前のモチーフは管理ナンバー69、だけでなく、無垢からも取られていると考えます)に「自分のために生きる」ことを説く悠。
・施設から脱走した子供達(アマゾン)に、拘束された駆除班&美月が「食うか食われるか以外の生き方」を気づかせる。
と、悠(アマゾンとして生き続けた者)と駆除班・美月(アマゾンと身近に接し続けてきた人間)が今までの体験を踏まえて子供達の心に呼び掛けていく場面は、アマゾンズ最後の作品としてとても心に沁み込んできます。
特にムクの手を引く悠の走る姿は、今回直接的に存在が語られることのなかったシーズン2の千翼とイユの逃避行を意識した場面ではないか?と思います。
しかし、運命は残酷なもので、後者は脱走した子供達を駆除班が保護出来たと思ったら黒崎隊とエンカウントし、なし崩しに戦闘へ突入。
前者も、怒るネオアルファによって瀕死の重傷を負わされたムクは、殺されて終わるのではなく悠に「食われる(命の一部になる)」ことを望み、悠は葛藤しながらもその願いを叶えます……。
その他登場人物だと、4Cの黒崎・札森コンビも悠や駆除班を阻む役どころでありながらも、らしさを見せていましたね。
特に黒崎隊長は、シーズン2最終回からすると「まだ駆除してたんだ」と少し意外に思いましたが、橘局長が黒幕であったことを知った際はきっちりと糾弾に赴いてましたし、局長の足を撃った際の「身の危険を感じたから、正当防衛」に彼のスタンスが込められていたのではないか?と(人間社会を安定させるために必要な事だと、"大人"として割り切っている証左)。
また、今作は「人に尽すためのアマゾン家畜化」が主要素だったこともあってか、新たなる強い生態系の誕生を望んだ天条会長や、マッドサイエンティストとして悠の安全を願う水澤令華らの別の黒幕については結局、お咎めがありませんでした。清算を求められた橘局長とは好対照でしたね。
本作の大一番はやはり、水澤悠と鷹山仁による最後の戦いでしょう。
創造神として捉えられ、草食アマゾン誕生にまたもや利用されていた仁さんの登場はやや説明不足で、子供達の境遇に葛藤し続け物語の進行役を担った悠と比較すると唐突感が否めませんでしたが、彼が出てくるとやはりアマゾンズを観ているなぁと血の匂いが鼻孔を突き、良い緊張感を与えてくれます。
特に復活直後の悠との揉み合いはお互い生身であるにも関わらず、椅子で殴る、首筋に噛み付く、椅子の足を突き刺す、頭突き、とやりたい放題の血みどろバイオレンス。
まさに殺し合い。
そして、いよいよ互いに変身して決着を付けようとするのが映画のクライマックスなのですが、やってくれましたねぇ……それまでは御堂が敵役として完結してもおかしくない話運びだったのですが、前述したように仁さんは人間である御堂を殺害し、悠は守りたかったムクを食らいます。
守るべき対象だった人間を殺すことで線引きを逸脱し、誰も食らわないアマゾンが初めて他者を食らってしまった……
主人公たちがこれまでの物語で守り抜いてきたポリシーを破る、禁忌を犯すという最大の矛盾を提供してきたこの瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃、心の中へ瞬時に山積されていく湿気を吐き出したくなりました(気持ち悪いとかの吐き気ではなく)。
生き抜くことが決して綺麗なだけでいられないことはそれまでのドラマの積み重ねで証明されていました。
しかし、自分が拠り所にしていた信条を反故にしてでも、踏み出さねばならない時もあるのだと教えられた気がします。
生きるに綺麗も汚いもない、いやそもそも悠と仁さんが掲げていたものが総じてエゴイズムから来ていたのだとするならば、正当性を語ること自体が野暮だったのかもしれません。
壮烈な死闘の末、仁さんは息絶え、悠が生き残るという審判が下されるのですが、どうも仁さんはこの結末を望んでいたのではないか?と思えます。悠との押し問答では、アマゾンを殺し尽す自分の正しさよりも「決着をつけるしかない」「自分を殺さないといつまでもアマゾンは産まれ続ける」ということをしきりに主張しており、悠に本気になるよう促していました。
「最後ノ審判」とはやはり、鷹山仁を突破せよとの意味合いだったのでしょうか?
家族である七羽さんと千翼を殺す、開発に関わったアマゾンを殺す、殺し殺し殺し尽す宿命を自らに課し受け入れ続けた鷹山仁の物語に待ち受けるのもまた殺されて至る「死」であった……と頷けるものがあります。
また余談ですが、施設の子供達(アマゾン)を追い詰め、抹殺の宣告をする彼はとても澄み、真摯な瞳で子供達を見据えていましたが、自分はシーズン1で見せた「アマゾンの生みの親として取る責任」、シーズン2の「千翼を父親として殺す決意」双方を想起しました。
生き残った悠は、自ら湖に身を沈め、入水を図ります。
そこで彼に生きて欲しいと願い、「待ってるから」と告げる美月の幻影を見て、思い留まります。
度々、七羽さんの幻影を見ていた仁さんと同じように、彼が愛しい人のそれを観るとは興味深いですし、「覚醒」の記事内で「あらゆる生命の源である神秘の場所・海で、生きる為に殺し合う」に大きな意味があったのではないか?と執筆したのですが、かつて生き続けることを宣言したのと同じ「水」のある場所で悠が「死を選択」しかけるというのは偶然ではないと思います(ほぼ同時に、志藤さんが切子聖園にて、仁さんのアマゾン細胞が収められていたカプセル容器を銃撃で破壊し、液体が弾け飛ぶ場面がありました。これもまた同じ水で掛けてるように思えます)。
そして、このシーンには平成ライダー系譜のリスペクトが窺えます。
同様に「人と異形の間に立ち、葛藤した存在が入水する」というシーンが描かれた作品があるのです。
それは、
超光戦士シャンゼリオン38話「皇帝の握ったもの」で、自分を畏れぬ子供達から銃撃を食らい湖で果てる黒岩省吾であり、
仮面ライダーカブト46話で、自分が憎むべきワームであると知り海の中に消えていく神代剣です(剣は海から戻ってきますが、自分も含めてすべてのワームを倒すことを決意します)。
上記の2話は平成仮面ライダーの重鎮、長石多可男監督と脚本・井上敏樹さんによるタッグであり、恐らくセルフオマージュの意図があったのではないか?と見ていますが、アマゾンズ側でこうなったのは単なる偶然だったのか、それともシャンゼリオン・カブト両作に関わった白倉プロデューサー、カブトを始め多くの平成ライダーを撮ってきた石田監督、いずれかにその意図があったのか…真偽は不明ですが、異形のあり方を問う作品繋がりで見逃せない一致だと個人的には捉えます。
また、黒岩と剣、共に人間の女性と恋仲になり、それが彼らの葛藤を深めていく要因となり、結局悲恋に終わってしまうのですが、美月が悠の死を引き留めたのはそれら2作品との大きな違いでもあります。
生と死を隔てる象徴として三途の川は有名ですが、平成ライダーにおける水の境界線は「人と異形」を隔てるものであったのかもしれません。
映画のラストで。悠の意思を継ぎ、そして悠が帰ってくる日を願う美月は切子聖園に残り、アマゾンである子供達を育てていくことを決め、美月の新たなる門出といつか来るかもしれない未来に駆除班の面々は笑顔を浮かべて去っていきます。
怪我の後遺症で片足が不自由になった美月は、「生きて」と子供達に願い、食事を共にします。
食べること、が大きなテーマだった作品に終止符を打つに相応しい場面。
外からその様を見届けた悠は、ジャングレイダーに乗ってその場を走り去り……映画は終わります。
ムクを食らい、仁さんを殺し……あまりにも多くの事が重なり、すぐには彼も美月の下に帰れない心情なのでしょう(美月が足を引きずらなければならなくなったのも巻き込まれた結果、と言えますし)。
ただし、生き続けているなら、そこに希望はある。
映画序盤、施設の子供達と同様「僕も家族がいないから」と語った悠に、自分は家族と思われていないことに美月は悲しそうな顔をしていました。
しかし、今、悠が帰ることを望む場所には、美月だけでなく子供達がいます。
悠、美月ともに血の繋がりはありませんが、「二人の子供たち」というメタファーで見ていいものと思われます。
悠にとっての家族とは「生きる家族」ですが、前述したように仁さんは「死で自覚する家族」ですから、ある意味ここも対比の図式が成り立つのかもしれません。
生き続ける悠はいつかこの「家族」の所に帰ってくるのかもしれない……そんな先の事を期待したくなる終わり方はちょっと意外であり、でもちょっと清々しい気分になってることは否定できない終わり方でした。
エンドロールに流れる主題歌「EAT,KILL ALL」も素晴らしい曲で、前2作のシリアス系の曲調とは違う、迸っていく生きる情熱、魂の鼓動が激しく打ち付けられていくアップテンポの曲調がとても頼もしく、こちらもアマゾンズの集大成だったなぁと感動しました。
恐らく時間が経てば、また言いたいことも出てくるでしょうが、以上が今の自分にとっての仮面ライダーアマゾンズ評となります。
平成末期にその雄たけびを轟かせた、新領域の仮面ライダー、アマゾンズ……今現在も特撮界を震撼させる衝撃作として話題を集めていますが、ここから5年10年と経過し、その影響を受けた、精神を受け継いだクリエイターや作品が世に現れることでまた違った評価と称号を得るのだろう、と確信しています。それだけの実力と魅力はあったと思いますから。
次回も乞う、ご期待!
メインストリームである地上波TV放送のライダーとは違う、ネット配信版仮面ライダーとして息吹を吹き込まれたアマゾンズ。
最後ノ審判は、その終章を飾るに相応しいダイナミックでエッジが全開に効いた怪作であり、醜さと美しさが隣り合わせである人の生死というシーズン1・2の精神をブレさせることなく引き継いでいた、というのが全体の印象です。
戦闘におけるゴア描写も薄まるどころか過激さを増し、宗教系の児童養護施設のように見せかけてまさかの「アマゾン牧場」、人間がついに手を付けてしまった「人間に食われるための草食アマゾン畜産計画」…とやはりインパクトの強い設定や場面が展開されていましたね。
やや物語の運び方には強引な部分(アマゾン畜産計画の実効性や仁さんの視力回復や御堂に捕らえられた経緯が全く不明)があったものの、シリーズ登場人物ほぼ全員のスタンスを尊重した見せ場だったり、その後が描かれていたので、終わりの物語として満足できる出来だったと思います。
以下、あらすじを交えて各論に入っていきます。
シーズン2から2年後、苛烈さを増す人間側の駆除によって、現存するアマゾンは水澤悠と鷹山仁の二人のみ、という状況から物語は始まります。
4C黒崎隊から執拗な追撃を受けた悠は、自分を助けてくれる美月と共にとある村の「切子聖園」なる児童養護施設に身を寄せることになります。
しかし、そこは児童養護施設などではなく、4C橘局長と通じた園長「御堂英之助」によって運営されていた「アマゾン牧場」であり、子供たちは政財界の有力者に食べられることを運命づけられた「草食のアマゾン」だったのです……。
シーズン1では「勝手にアマゾンを生んだのに、勝手な理由で殺そう」とし、
シーズン2では溶原性細胞事件を象徴に「始めたことを、終わらせることは出来ない」という面が強調されていましたが、今作の「人間」は食料自給率向上のための秘策、誇るべき日本の新たな資源と称して「家畜化」を目論む……万物を科学力によって制御できるはずだ、と自らの英知を疑わない傲慢さを感じさせましたね。
直接的言及は無く推測の域に留まるのですが、橘局長が計画を推進した背景は従来からの利益を重視するビジネスマン思考の延長線にあると同時に、千翼に重傷を負わされたことがアマゾンへの憎しみを高め、人間より下層の存在として「支配」したい欲があったのではないか?と考えてしまいます。
計画を主導していたアマゾンネオアルファの変身者・御堂も、激戦を潜り抜けてきたレギュラーキャラたちに見劣りしない悪役を務め切っていましたね。
普段は柔和な紳士で、服装が乱れると襟を正したり、変身の際はちゃんとスーツを脱ぐ、など演じられた姜暢雄さん(他特撮作品では忍風戦隊ハリケンジャーのクワガライジャー等を演じられています)のスマートなお顔立ちが活かされていたと思いますし、計画の失敗を悟った際の激昂やネオアルファのガトリングとチェーンソーを用いた残虐なファイトスタイルとのギャップも面白い。
またこちらも子細の言及はされませんでしたが恐らく彼は科学者で、「ココ(頭)を使うのが俺達人間だろ?」の発言から窺えるように、自分と人間の科学力に対する絶対の自信を持ち、アマゾンによる畜産を本気で人類の発展に寄与するもの、化学発展の歴史に名を刻むことと信じている節が見られます。
また、人の側には一切の害を出してないことを強みのように語っており、生みだした責任を取るためアマゾンを殺すためのアマゾンとなった鷹山仁と対を為すもう一人のアルファ(ネオアルファ)を名乗るにはうってつけのキャラクターだったように思えます。
しかし、その最期は呆気なく、その行動理念から「鷹山仁は人間を殺せない」と油断したのが災いし、惨殺されます。
自分と同じく「人のために戦っていた」だろうとの意識が強かったのでしょうし、「鷹山さん!」の叫びには確信した期待を漂わせていました。
ただ、これまた説明のなかった話なのですが、御堂は仁さんと同じく「人間からアマゾン」になったという解釈で良いんでしょうかね?
テーマ的にもまとまりのよい同時進行がされていて、
・死の恐怖から人間を食べてしまった施設の少女ムクことリスアマゾン(名前のモチーフは管理ナンバー69、だけでなく、無垢からも取られていると考えます)に「自分のために生きる」ことを説く悠。
・施設から脱走した子供達(アマゾン)に、拘束された駆除班&美月が「食うか食われるか以外の生き方」を気づかせる。
と、悠(アマゾンとして生き続けた者)と駆除班・美月(アマゾンと身近に接し続けてきた人間)が今までの体験を踏まえて子供達の心に呼び掛けていく場面は、アマゾンズ最後の作品としてとても心に沁み込んできます。
特にムクの手を引く悠の走る姿は、今回直接的に存在が語られることのなかったシーズン2の千翼とイユの逃避行を意識した場面ではないか?と思います。
しかし、運命は残酷なもので、後者は脱走した子供達を駆除班が保護出来たと思ったら黒崎隊とエンカウントし、なし崩しに戦闘へ突入。
前者も、怒るネオアルファによって瀕死の重傷を負わされたムクは、殺されて終わるのではなく悠に「食われる(命の一部になる)」ことを望み、悠は葛藤しながらもその願いを叶えます……。
その他登場人物だと、4Cの黒崎・札森コンビも悠や駆除班を阻む役どころでありながらも、らしさを見せていましたね。
特に黒崎隊長は、シーズン2最終回からすると「まだ駆除してたんだ」と少し意外に思いましたが、橘局長が黒幕であったことを知った際はきっちりと糾弾に赴いてましたし、局長の足を撃った際の「身の危険を感じたから、正当防衛」に彼のスタンスが込められていたのではないか?と(人間社会を安定させるために必要な事だと、"大人"として割り切っている証左)。
また、今作は「人に尽すためのアマゾン家畜化」が主要素だったこともあってか、新たなる強い生態系の誕生を望んだ天条会長や、マッドサイエンティストとして悠の安全を願う水澤令華らの別の黒幕については結局、お咎めがありませんでした。清算を求められた橘局長とは好対照でしたね。
本作の大一番はやはり、水澤悠と鷹山仁による最後の戦いでしょう。
創造神として捉えられ、草食アマゾン誕生にまたもや利用されていた仁さんの登場はやや説明不足で、子供達の境遇に葛藤し続け物語の進行役を担った悠と比較すると唐突感が否めませんでしたが、彼が出てくるとやはりアマゾンズを観ているなぁと血の匂いが鼻孔を突き、良い緊張感を与えてくれます。
特に復活直後の悠との揉み合いはお互い生身であるにも関わらず、椅子で殴る、首筋に噛み付く、椅子の足を突き刺す、頭突き、とやりたい放題の血みどろバイオレンス。
まさに殺し合い。
そして、いよいよ互いに変身して決着を付けようとするのが映画のクライマックスなのですが、やってくれましたねぇ……それまでは御堂が敵役として完結してもおかしくない話運びだったのですが、前述したように仁さんは人間である御堂を殺害し、悠は守りたかったムクを食らいます。
守るべき対象だった人間を殺すことで線引きを逸脱し、誰も食らわないアマゾンが初めて他者を食らってしまった……
主人公たちがこれまでの物語で守り抜いてきたポリシーを破る、禁忌を犯すという最大の矛盾を提供してきたこの瞬間、頭を鈍器で殴られたような衝撃、心の中へ瞬時に山積されていく湿気を吐き出したくなりました(気持ち悪いとかの吐き気ではなく)。
生き抜くことが決して綺麗なだけでいられないことはそれまでのドラマの積み重ねで証明されていました。
しかし、自分が拠り所にしていた信条を反故にしてでも、踏み出さねばならない時もあるのだと教えられた気がします。
生きるに綺麗も汚いもない、いやそもそも悠と仁さんが掲げていたものが総じてエゴイズムから来ていたのだとするならば、正当性を語ること自体が野暮だったのかもしれません。
壮烈な死闘の末、仁さんは息絶え、悠が生き残るという審判が下されるのですが、どうも仁さんはこの結末を望んでいたのではないか?と思えます。悠との押し問答では、アマゾンを殺し尽す自分の正しさよりも「決着をつけるしかない」「自分を殺さないといつまでもアマゾンは産まれ続ける」ということをしきりに主張しており、悠に本気になるよう促していました。
「最後ノ審判」とはやはり、鷹山仁を突破せよとの意味合いだったのでしょうか?
家族である七羽さんと千翼を殺す、開発に関わったアマゾンを殺す、殺し殺し殺し尽す宿命を自らに課し受け入れ続けた鷹山仁の物語に待ち受けるのもまた殺されて至る「死」であった……と頷けるものがあります。
また余談ですが、施設の子供達(アマゾン)を追い詰め、抹殺の宣告をする彼はとても澄み、真摯な瞳で子供達を見据えていましたが、自分はシーズン1で見せた「アマゾンの生みの親として取る責任」、シーズン2の「千翼を父親として殺す決意」双方を想起しました。
生き残った悠は、自ら湖に身を沈め、入水を図ります。
そこで彼に生きて欲しいと願い、「待ってるから」と告げる美月の幻影を見て、思い留まります。
度々、七羽さんの幻影を見ていた仁さんと同じように、彼が愛しい人のそれを観るとは興味深いですし、「覚醒」の記事内で「あらゆる生命の源である神秘の場所・海で、生きる為に殺し合う」に大きな意味があったのではないか?と執筆したのですが、かつて生き続けることを宣言したのと同じ「水」のある場所で悠が「死を選択」しかけるというのは偶然ではないと思います(ほぼ同時に、志藤さんが切子聖園にて、仁さんのアマゾン細胞が収められていたカプセル容器を銃撃で破壊し、液体が弾け飛ぶ場面がありました。これもまた同じ水で掛けてるように思えます)。
そして、このシーンには平成ライダー系譜のリスペクトが窺えます。
同様に「人と異形の間に立ち、葛藤した存在が入水する」というシーンが描かれた作品があるのです。
それは、
超光戦士シャンゼリオン38話「皇帝の握ったもの」で、自分を畏れぬ子供達から銃撃を食らい湖で果てる黒岩省吾であり、
仮面ライダーカブト46話で、自分が憎むべきワームであると知り海の中に消えていく神代剣です(剣は海から戻ってきますが、自分も含めてすべてのワームを倒すことを決意します)。
上記の2話は平成仮面ライダーの重鎮、長石多可男監督と脚本・井上敏樹さんによるタッグであり、恐らくセルフオマージュの意図があったのではないか?と見ていますが、アマゾンズ側でこうなったのは単なる偶然だったのか、それともシャンゼリオン・カブト両作に関わった白倉プロデューサー、カブトを始め多くの平成ライダーを撮ってきた石田監督、いずれかにその意図があったのか…真偽は不明ですが、異形のあり方を問う作品繋がりで見逃せない一致だと個人的には捉えます。
また、黒岩と剣、共に人間の女性と恋仲になり、それが彼らの葛藤を深めていく要因となり、結局悲恋に終わってしまうのですが、美月が悠の死を引き留めたのはそれら2作品との大きな違いでもあります。
生と死を隔てる象徴として三途の川は有名ですが、平成ライダーにおける水の境界線は「人と異形」を隔てるものであったのかもしれません。
映画のラストで。悠の意思を継ぎ、そして悠が帰ってくる日を願う美月は切子聖園に残り、アマゾンである子供達を育てていくことを決め、美月の新たなる門出といつか来るかもしれない未来に駆除班の面々は笑顔を浮かべて去っていきます。
怪我の後遺症で片足が不自由になった美月は、「生きて」と子供達に願い、食事を共にします。
食べること、が大きなテーマだった作品に終止符を打つに相応しい場面。
外からその様を見届けた悠は、ジャングレイダーに乗ってその場を走り去り……映画は終わります。
ムクを食らい、仁さんを殺し……あまりにも多くの事が重なり、すぐには彼も美月の下に帰れない心情なのでしょう(美月が足を引きずらなければならなくなったのも巻き込まれた結果、と言えますし)。
ただし、生き続けているなら、そこに希望はある。
映画序盤、施設の子供達と同様「僕も家族がいないから」と語った悠に、自分は家族と思われていないことに美月は悲しそうな顔をしていました。
しかし、今、悠が帰ることを望む場所には、美月だけでなく子供達がいます。
悠、美月ともに血の繋がりはありませんが、「二人の子供たち」というメタファーで見ていいものと思われます。
悠にとっての家族とは「生きる家族」ですが、前述したように仁さんは「死で自覚する家族」ですから、ある意味ここも対比の図式が成り立つのかもしれません。
生き続ける悠はいつかこの「家族」の所に帰ってくるのかもしれない……そんな先の事を期待したくなる終わり方はちょっと意外であり、でもちょっと清々しい気分になってることは否定できない終わり方でした。
エンドロールに流れる主題歌「EAT,KILL ALL」も素晴らしい曲で、前2作のシリアス系の曲調とは違う、迸っていく生きる情熱、魂の鼓動が激しく打ち付けられていくアップテンポの曲調がとても頼もしく、こちらもアマゾンズの集大成だったなぁと感動しました。
恐らく時間が経てば、また言いたいことも出てくるでしょうが、以上が今の自分にとっての仮面ライダーアマゾンズ評となります。
平成末期にその雄たけびを轟かせた、新領域の仮面ライダー、アマゾンズ……今現在も特撮界を震撼させる衝撃作として話題を集めていますが、ここから5年10年と経過し、その影響を受けた、精神を受け継いだクリエイターや作品が世に現れることでまた違った評価と称号を得るのだろう、と確信しています。それだけの実力と魅力はあったと思いますから。
次回も乞う、ご期待!