プリキュアを始めとしたニチアサ作品がゴルフでお休みとなっていますが、
今回は、先日観賞してきました映画の感想記事を投稿します。


その映画とは……

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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(吹き替え上映版)ーー通称KOM。




米レジェンダリー・ピクチャーズ製作のモンスターバースシリーズ第3弾であると同時にゴジラ65周年記念作品の看板も背負い、2019年6月現在日本で怪獣旋風を巻き起こしている本作。
全て網羅しているわけではありませんが、自分もゴジラ作品に思い入れがある身として黙っているわけにはいかねえぜ!!!と劇場に駆け込みました。


以下関連作視聴リストです、
・ゴジラ(1954年版)
三大怪獣 地球最大の決戦
怪獣総進撃
・平成VSシリーズ
・ミレニアムシリーズ
・シン・ゴジラ
GODZILLA ゴジラ(2014)
キングコング: 髑髏島の巨神
Godzilla, King of the Monsters! 邦題・怪獣王ゴジラ(1954年版の海外版)
※赤枠は今作との関連を指摘する情報があったため初めて視聴した作品です。ただしGodzilla, King of the Monsters!』はタイトルの類似からもしかしたら…と勘を働かせて視聴に至っています。

 抜けが多く準備万端とは言えない装備で挑んだ私、それでもこれだけは言えるのです。


怪獣の、ゴジラの宝石箱や~~~!!!!

それもむせ返るほどの……。


美味しい物が全て詰まった幕の内弁当?いえ、スケールが違います。
考え得る限りの全てが詰まった最強のお重です。何故なら、ゴジラシリーズ以外のコンテクストも合流しているのですから。
だからと言って既存ゴジラシリーズのどれかを見ていないと楽しめないかと言うとそうではありません。
単独のエンターテインメント作品として機能する為のフックも多数仕掛けられていたのですから。




以降のトピック解説からはネタバレを躊躇なく展開していく記事となっています。
映画未観賞の方はご注意ください。






モナーク(血と勇併せ持つ者たち)
 今回、ゴジラを始めとする怪獣たちの対策に掛かるのがアメリカの特務機関MONARCH(モナーク)物語の中心を担うキャラクターのほとんどが属する組織であり、2014年GODZILLAや髑髏島の巨神と本作をモンスターバースとしてリンクさせる要素です。
サンフランシスコでのゴジラVSムートー戦ではあくまでもオブザーバー的立場でしかなかった同組織は、解散危機を叫ばれているのがまるで嘘のように対怪獣作戦の最前線で奮闘します。
本作の主人公であるマークや芹沢らが優秀な頭脳をフル回転させての現状分析・怪獣起源の解明もさることながら、軍事部門Gチームを統括する女傑フォスター大佐の臨機応変かつダイナミックな用兵が合わさることで映画全体がパワフルで快活な色味を帯びたように感じます。
人間知性の描写、に関しては別トピックで触れますがそれを最大限に運用する人間の力強さあるいは徹底したミリタリーが大きな見所の一つと言えるでしょう。




芹沢という男
 2014版に続いて物語の中枢を担うこととなったモナークの芹沢猪四郎博士
そのネーミングモチーフは第1作ゴジラにて悪魔の兵器オキシジェン・デストロイヤーを開発してしまった悲劇の科学者『芹沢博士』と第1作を始めとした多数のゴジラシリーズや東宝特撮映画でメガホンを取った『本多猪四朗監督』と言われていますが、本作でのゴジラとの関わりは「芹沢」の名を持つ者としての運命を強く感じさせるものとなっています。
いや~オキシジェンデストロイヤーが米軍開発の超兵器として軽々と投下された時は一種冒涜ではないか?と憤りかけたのですが、そのために死にかけたゴジラを文字通り命を差し出して復活強化させる役どころに回るのですから、それがリスペクトだったのだと分かるのです。
オキシジェンデストロイヤー使用の責を負うのは第1作ゴジラの芹沢博士そのものですし、
広島で父親が被爆したこともあり核兵器使用に最も慎重なスタンスであった彼が友と認めたゴジラのために核と共に散る姿は、家族を奪ったゴジラを憎むマークへ『憎悪対象への赦し』という考え方を訴えることとなります。
「さらば、友よ……」
決戦を盛り上げる芹沢博士最期の言葉こそ本作屈指のベストフレーズと言えるでしょう。





知性の対立・善悪の怪獣・「ウルトラマンガイア」
 騒乱の発端は環境テロリスト、アラン・ジョナが怪獣との交信を可能にする装置『オルカ』を、その開発者でありマークの元妻・エマと娘のマディソンごと強奪したことに始まるのですが、実は星の支配者(怪獣)による環境再生という思想に傾倒したエマ自らジョナ達にコンタクトを取った結果の自作自演(?)だったことが判明。
怪獣災害によって分断された家族の絆というドラマ要素もありつつ、環境問題を巡って激しい応酬が繰り広げられる現代の問題意識が怪獣という存在に投影されているのだと分かります。
環境保全・再生論が極北まで達すると必ず沸き上がってくるのが「環境を食いつぶすだけの人間は星にとっての癌であり滅びるべきだ」との論。「正気の沙汰とは思えない」のカウンターが繰り出されるまでがある種お約束。このループにはまっていくと答えは良くも悪くも抽象的にならざるを得ないのですが、最大の強敵『ギドラ』が「ゴジラと地球の王を争った者」ではなく「外部からの侵略者・外来種」であるとの起源に辿り着くことで、局所的な『善悪』の枠が設定され、生態系を荒らすギドラをゴジラと共に総力を挙げて倒すという方向に映画全体がフルスロットル。
アクション・ドラマ両面で本作が高い評価を受ける所以、相当にテクニカルな手法だと感嘆しますねぇ。
 また、この人間に対する罪を問うた構図は現在Youtubeでも配信されている『ウルトラマンガイア』特にウルトラマンアグルこと藤宮の行動原理を思い浮かべたことも多いのではないでしょうか?
外部から攻めてくる根源的破滅招来体に対し、人類と地球由来の怪獣が共同戦線を張るのもまた然り。
後述トピックでも触れますが、本作では怪獣という存在の許容に対しかなり踏み込んだと個人的に感じるのでそういう意味ではガイアの更なる一歩先を見せてくれたのかなと感慨深く思います。




リアライズされていく神性・国境・「ガメラ3」
 本作を製作したドハティ監督はどうやら「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(通称GMK)を製作直前に視聴されていたようで、その影響が色濃いのだと窺える描写・設定が散見されます(ゴジラを庇うモスラ、中盤まで地球の神だと誤認されるギドラなどなど)。
特に怪獣を神話世界の存在として規定していくロジックは、GMKだけに留まらない金子修介イズムへのリスペクトと言えるでしょう。
そうです、平成ガメラ3部作、特にガメラ3邪神<イリス>覚醒で提示された『神々の戦い』のような荘厳さを強く感じさせるのです。
この系譜は2014年や髑髏島の巨人でも触れられていましたがあくまでも触り程度(時系列上最も古い髑髏島の巨人では、人間文明やそれらが作り上げた機械の優位性を疑わないというスタンスもチラホラ)
KOMでは本格的に怪獣が内包している神性に現実的知性で向き合い、環境を回復させる彼らと一時的にでも共存する方向性を打ち出した、それも感情論中心ではないというのは大きくとても踏み込んだメッセージ性を発していたように思えます。
壮大で曖昧で人の手に余るといった抽象論に留めておくのではなく、説教臭さのない実利的な意味で神=怪獣と向き合っていくこのスタンスがとても真新しい感動を呼んでいるような気がしてなりません。
 日本のおけるゴジラは原水爆・戦争のメタファーを切っても切り離せない(比較的上記文脈が薄いシン・ゴジラも福島第一原発事故がモチーフにされています)存在として確立されていますが、
一方、ゴジラを絶対的な存在として崇めるようなテイストが見受けられるのは一神教社会における解釈が多分に盛り込まれているからではないか?と見て取れます。
オマージュもありつつ、製作国の違いもまた垣間見える、そういった点から文化観の集大成としての怪獣映画を観るという楽しみ方もまた一興。


拡大への期待
 本作続編Godzilla vs. Kong」が早くも2020年公開予定であることは周知の事実ですが、映画内でも今後の新たな展開を期待させる伏線が張られていました。
例えば、エンドロール終了後に流れた「ギドラの遺骸(首)を漁師から買い取るジョナ」の場面はゴジラに敗れ再生改造された『メカキングギドラ』あるいはVSシリーズニテその技術を解析して誕生した『メカゴジラ』の登場を期待させます。
米軍に投下されるもゴジラだけを瀕死に追い込む最悪の事態を招いた『オキシジェン・デストロイヤー』はゴジラの天敵『デストロイア』登場の下準備が整ったとも取れます。
またゴジラ達怪獣=地球の神であるとの視座を提供したことで、今後登場するであろう他のゴジラシリーズ怪獣たちにも新たなアレンジが加わるのではないか?と期待が高まります。
例えば最近、ゲノム編集によって子供が誕生し物議を醸したというニュースが記憶に新しいところですが、遺伝子操作(バイオテクノロジー)を用いてしかもゴジラの細胞を組み込んで誕生したビオランテを登場させたりなんかするとかなり面白いことになるのではないか?と素人考えに思うわけなんですよね。
またドハティ監督のインタビューにも出てきたガメラの登場も期待しちゃったり……。




コンテクストを完全回収した日米の真なる『怪獣王』
 1954年版第1作ゴジラの海外版Godzilla, King of the Monsters! 邦題・怪獣王ゴジラと同じ作品名を掲げるKOM(原題:Godzilla: King of the Monsters)。
そのリスペクトの真意は奈辺にあるのか?
それは怪獣王ゴジラとオリジナル1954年版の違いにその真実が隠されているのではないか?と今回観賞して思いました。
ざっくり言うと、アメリカナイズドされた結果ゴジラに込められた原水爆への継承や人類の傲慢さといった思想的に濃ゆい部分が薄められ娯楽作品化してしまったのが海外版怪獣王なのですが(多分に時代の影響もあり、アメリカでは2000年代以降ようやくオリジナルゴジラの観賞が可能になったのだとか。核に対する見解の違いもあるのでしょう)。
では翻ってKOMはどうだったのか?と言うと、これ以上なく日本版をリスペクトしたゴジラ映画だったのですよね。前作2014年版からしてその傾向はあったわけですが、VSキングギドラあるいはファイナル・ウォーズを思わせるゴジラ復活作戦、核で目覚めたゴジラの燃え盛る体はVSデストロイアのバーニングゴジラと瓜二つなどなど「観客で全てのオマージュに気づける人いるのかな……」と思えるまでにゴジラしてたんですよね……。
ギドラに対する見解もGMK的な地球由来の神から地球最大の決戦で提示された宇宙怪獣……と各種作品の設定をなぞるように変遷しています。
映画終盤、ギドラを降しその洗脳から解かれた多くの地球怪獣がゴジラの下に集い跪く画が「怪獣王」の誕生を印象付けますが、この映画が想像を絶するレベルで「歴代ゴジラの文脈と言う名の遺産」を回収したからこそ改めて「怪獣王ゴジラ」を名乗る資格が出来たのではないでしょうか。
娯楽化された怪獣から考えられる得る日米のロジック全てを装備した、正に名実相伴う怪獣王が誕生したと言えるでしょう。




 新たな手法で描かれたハリウッドのゴジラであったと同時に改めてゴジラという映画を持つ魅力とパワーを再確認させてくれたKOM。
KOMを観る前に、あるいは観た後でもシリーズ作品を振り返れば楽しめるし、単独で観賞してもその圧倒的な情報量とアクションに血が滾ること間違いなしの傑作でした。
すっかり虜にされた今、来年のゴジラとキングコングの対決が楽しみでなりません。
それまでにまだ未観賞の昭和ゴジラを見ておきたいと思います。

 次回も乞う、ご期待!