あけましておめでとうございます。
2019年もちょくちょく更新していきたいと思っていますので、時間がある時に皆様にお読み頂ければと思っています。

 年明け最初の更新は映画「平成仮面ライダー20作記念・仮面ライダー平成ジェネレーションズForever」を鑑賞してきたので、その感想記事となります。

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※既にネットニュース等で話題になってるアレを含め、映画の結末部分にも触れるネタバレ記事、映画を観てる事全体の語り口で色々端折った文章となりますので、映画をまだ観ていない方はご注意ください。



 映画平成ジェネレーションシリーズ第3弾にして、仮面ライダー20作記念映画として製作された本作は初報時から期待値が高く、更に「フィクションの存在としての仮面ライダー」をテーマにするということもあり、大変注目されていました。
フィクションと観客の間にある所謂、第四の壁への挑戦は仮面ライダー映画では(多分)初めての試みです。


 今回の映画の軸は、
自分達の日常が改変されたことを察知した常盤ソウゴを始めとする『仮面ライダージオウ』のメンバー。
人々の記憶から抹消されたはずなのに自分達がライダーとして認識されるありうべからざる異変に気づく桐生戦兎ら『仮面ライダービルド』のメンバー。
アナザーW、アナザー電王をけしかけて、少年「シンゴ」を捕まえようと目論むスーパータイムジャッカーの『ティード』。 
イマジン「フータロス」と契約した仮面ライダーオタクの青年『アタル』。


 逃亡するシンゴを介して、出会ってしまった彼らによる攻防が物語の主軸を形成するのですが……

元々設定が複雑な幹が絡み合ったことでより話が複雑化してしまい、その理屈を頭で解きながら観ようとしたらかなり疲れてしまう。かなりややこしい……序盤ではそのように思えてしまいました。
 元々、ライドウォッチの継承によるライダーの歴史剥奪やアナザーライダーの設定、その解釈が難しいジオウの設定、更に更に過去へ飛ぶためのの契約を結ぼうとする"イマジン"や歴史修復の能力を持つ"特異点"といった「電王」固有の設定も組み込まれたことで相当ややこしいこととなっています(ここまで文章をまとめる段階で既に頭が痛い……)。
考察するという意味では相当やり甲斐があるような気もしますが……一度の観賞ではちょっと解けないですね……。


 しかし、平成仮面ライダーの始まりである「クウガ」をまだ観ていない特異点・シンゴを封印することで平成ライダーを歴史から完全に抹殺するというティードの狙いや、同じく特異点であるためにアナザー電王が存在しても干渉を受けない野上良太郎とイマジンズの登場など、上手く回した部分もあるなと思います(完全に理解出来ているかは怪しいのですが……)。

 個人的にこの映画のギアが上がってきたのは佐藤健さんが10年振りに演じる良太郎の登場からです。
この映画のサプライズ要素として完全極秘扱いされていた登場シーンは、私が観賞した段階では既に各種ニュースで報じられ既知の物となっていましたが、それでもこのシーンに心を揺さぶられ、自分の中でのこの映画の評価を決定づけるものとして刻み込まれました。


 所詮虚構の存在である仮面ライダーに兄シンゴの救出を願っても無意味。フィクション上の存在を信じ続ける自分をも嫌悪するアタルの前に現れた良太郎(ウラタロスに憑依されたU良太郎)。
彼は、虚構と現実の違いが全てではなく、誰かが覚えている限りそれは存在し続ける(旨の台詞)と告げます。


 ふとしたきっかけで変化してしまう時間や記憶を守り続けてきた良太郎、そんな彼と互いに「忘れられない」関係を築いたモモタロスらイマジン達――電王本編で紡がれた物語を知っていると何重にも説得力が生まれる、強く優しく夢のある彼らの言葉が突き刺さります。
「さらば仮面ライダー電王」以来となる『野上良太郎の仮面ライダー電王』の全てが、この短いシーンに込められていました。
そして、なによりこれが今、仮面ライダーを愛する人々へのメッセージだと気づいた時、この映画に込められた熱と感謝の気持ちが実感できるとそう思えました。

 
 覚えている限り、仮面ライダーは存在する。


 電王と並んでそのテーマを強調をするのがビルドという点も巧い。
今作の戦兎(と万丈)は、新世界創造後とはまた違うパラレルの存在らしいのですが(該当部分を明言している「ビルド」の大森プロデューサーのインタビュー記事へのリンクです)「記憶を共有出来ているのは万丈だけ」「作られたヒーロー」と『新世界創造後の彼ら』に近い設定は持っていたようで、
不安定な存在理由に立脚する影を感じさせながらも、唯一万丈だけに覚えられている自分の存在を受け入れており、アタルに記憶の価値を教える良太郎ならソウゴにを説くのが彼だったのだなと思わせる立ち振る舞いをしていましたね。

 覚えている側、覚えられている側、双方の心情が丹念に描き込まれることで生じるエモーショナルなメッセージ性……単純な見方かも知れませんが、一連の「覚えている限り存在している」というテーゼで冒頭の「複雑な話に感じたモヤモヤ」が一気に払拭され、この映画を楽しむための座標軸はここだ!と見つけたような気がしたんですよね。
複雑な平行世界の交差に対する解としては弱いかもしれません。しかし、現実か虚構かなんてどうでもいい、信じている・覚えていることにこそ価値があるとまで言い切るキャラクター、そしてクリエイターたちが込めた想い……一ライダー好きとしてそちらの方を信じてみたいなと思わせる、そういう力があった映画なのだと思うことにします。


 番組を応援し続けてきた人々の記憶から召喚され、ティードの軍勢と激闘を繰り広げる平成ライダー20人によるバトルも圧巻のシーンとなっています。
オリジナルの俳優さんによって台詞が新緑されたライダー、それ以外のライダーの台詞も当時のライブラリー音声が使用されており、『当時の仮面ライダー』がそこで戦っていると言っても過言ではない迫力と感動溢れる戦闘シーンは本作の語るべき見所の一つでしょう。
 個人的には自分が好きなキバとアギトが同じ立体駐車場で戦っていたシーンが印象深く、赤いチェーンで薙ぎ払うキバ、アギトの手刀、とどちらも原典では使用されていない必殺技ではありましたが、とにかくカッコいいから「アリだ!!」と称賛したいです。


 ライダーの力を継承していく、ともすると剥奪しているようにも見えるのがTVシリーズでのジオウですが、映画ラストでソウゴは「戦兎たちのことを絶対に忘れない」と約束しました。
現実と虚構の壁を超えた記憶の力を知ったことが、TVシリーズへどのように反映されていくのか、それが楽しみでなりませんね。


 とても個人的な余談ですが、フィクションと現実の壁に挑むという本作のあらすじを聞いた時、「超光戦士シャンゼリオン」のことを思い浮かべました。
新しい特撮ドラマへの挑戦を試みた本作の精神やスタッフの座組が受け継がれていることから「平成仮面ライダーのプロトタイプ」と呼ばれているシャンゼリオン。
現実と虚構のテーマは、シャンゼリオンが現実のヒーロー番組として放送されている世界を描いた36話とシャンゼリオン世界、そして主人公・涼村暁の真実を描く最終話にて触れられています。
特に最終話以前のお気楽な世界観で繰り広げられた物語が、ダークザイドにほぼ侵略されかけていた現実世界の防衛隊隊員である涼村暁が「叶わないと知りつつも望んだ夢の世界」であると暴かれた衝撃は今なお特撮史に残る伝説だと思っています。
それが平成仮面ライダーの終わりを飾る平ジェネForeverとの間に奇跡のリンクが発生したのではないか?と個人的には考えるのです。
「現実に打ちひしがれた者の逃避先としての虚構・儚い幻」を描いたシャンゼリオンから、
「現実と虚構のせめぎ合いを超えた、信じる者を全肯定するベクトル」を打ちだした平ジェネForeverへと。
 平成を通して紡がれていったヒーローと夢の物語が、平成の終わりでついに結実したのだと思いたい。


 電王やビルド、シャンゼリオン、そして平成ライダーを応援していた自分……多くの事に思いを馳せる結果となった平ジェネForever。
見る者へ記憶との対話を促す熱量を以て、この映画は平成に有終の美をもたらすライダー映画の傑作なのだと自分は言いたいです。



 次回も乞う、ご期待!